高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

地名への偏愛

地図が好きである。それとともに、理屈抜きで地名が好きである。

私は仙台市に生まれた。最初に育ったのは、現在の若林区・石名坂というところである。そこから、すぐ近くの畳屋町にある幼稚園に通っていた。私の高校時代ぐらいまでは、個人情報保護法などというものはなかったから、幼稚園から高校まで、当然のごとく名簿が配布されていた。今のご時世からしたら空恐ろしいほどの個人情報が満載で、保護者の名前から職業、住所、電話番号まで、もれなく記載されていた。

その名簿を見るのが好きだった。ただひとえに住所の地名を見るのが楽しかったのである。若林区のそのエリアというのは、実に一つひとつのまち自体が狭く、かつ多彩だった。「南材木町」「南染師町」「南石切町」「弓ノ町」などなど。

小学校に上がる直前に、今度は太白区の長町というところに引っ越したが、そのマンモス校(もはや死語であるか)は、長町の一丁目から八丁目までに住む小学生で大部分が占められていた。私には大変不満だった。長町という味も素っ気もない地名も気に食わなかった。

だが、つまらぬ時もいずれは経つ。その後、懐かしい若林区にある高校に通うこととなった。「八軒小路」「六十人町」「河原町」などの地名が通学路に復活したときの喜びは、どんな友達と遊んだことよりも忘れがたい。

私の父は散歩が大変好きな人であるが、幼いころの父との散歩は、比類なく楽しい思い出であり、今でも忘れがたい。何が楽しかったかといって、父の垂れる講釈が面白くてたまらなかったのである。「この道は今はなき市電の走った通りであるゆえ、見よ、そこに跡が残っているであろう」、とか、「なぜこの辺りに寺が多いか、その理由をお主は知りたいか。それは(以下略)」といったふうに。

そのなかで私は、仙台の地名が、「丁」と「町」分かれていること、伊達政宗が城下町を作らせた際、上級武士が住むまちには「丁(ちょう)」を、町人や足軽、職人などが住む町には「町(まち)」という字を当てたのがその始まりだということを知った。ちなみに若林区には、職人の名を冠せられたまちが多く、今もそのまま残っている。

はっきり、私の地名への偏愛はこのときに始まったのである。それはまぎれもなく父の血だった。

地名に関する思い出は他にもいくつかある。

大学、大学院を通して私の指導教授であった人は、埼玉県の幸手市の出身で、あるとき、「サッテ」と読むのはアイヌ語に由来していて、なぜ埼玉県がアイヌとつながるのか、という話をしてくれたことがあった。それを聴く私の心は瞬時に北の地へ飛んだ。青森県の「竜飛岬」「弘前」もアイヌ読みである。北海道といったらもう、それらを拾い上げるだけで楽しい。「積丹」「厚岸」「新冠」……漢字の当て方に、日本の近代化が見え隠れしている。

また、中上健次によって、被差別地区と地名との関係を教えられたことも、生涯における特筆すべき出来事であった。彼の最高傑作は、『紀州 木の国・根の国物語』だと私は信じて疑わないし、谷崎潤一郎の『吉野葛』について書かれた「物語の系譜」も、何度読み返したかわからぬ。

地名には人間の暮らしがある。その地名ひとつで、かつてそこに生きた無数の人々の暮らしも、眼前に鮮やかに蘇る。空間のなかに時間もあるのだ。

地名を一番意識したのは、東日本大震災だった。あの直後、地震や水に弱い地域というのは地名を見ればわかる、といったような研究がずいぶん世の中にも知れ渡り、本もいくつか出た。しかし私にとっての地名とは、そんなことではなかった。

あのときは、多くの、とくに沿岸部の地域が津波で被害を受けた。ほぼ全滅したような地域もあった。原発事故もあった。こういう天災が起らなければ、その地に何かしらの縁がある人以外には、ほとんど知られることもなかったような地名が、全世界に広まった。はたしてあの震災が起こるまで、岩手県のたとえば「大槌町」や「田老町」、宮城県の「亘理町」、福島県の「浪江町」「楢葉町」などを知っている人が、どれだけいただろうか。

あの頃は地図ばかり見ていた。渡波万石浦志津川。矢本。門脇。荒井。蒲生。岡田。三本塚。閖上。たくさんの人が死んだ。かつて生き、死んだ人たちが築き上げてきた暮らしも一度は死んだ。地名は一括りに「被災地」という名の記号と化した。この先、どれほどの復興がなされても、私は生涯、このときのことを忘れることはないだろう。

つまり、地名を支えているのは、かつてそこに生きた人々、今そこに生きる人々の暮らしなのだという、当たり前だが厳粛な事実を、まさに事実として突きつけられた感じがしたのだった。それは文字をはるかに超えていたのだった。