本の帯には、「この手のものに弱いんだよね~ お父さんのためのディープなちくま文庫」とある。今なら、もうこのコピーはアウトだろう。ちなみに私はお父さんではないが、この手のものに弱い。ゆえに迷わず買った記憶がある。
副題には、「消えゆく夢の街を訪ねて」とある。写真も木村氏のものである。東京を中心に、関西は飛田、中書島、橋本、枚方、大和郡山、他には名古屋の中村などの写真が収められている。今は完全になくなって、その痕跡を辛うじて見つけられるもの、あるいは表向きは違うものに変えつつも、その当時の形が厳として残っているもの、実にさまざまな「赤線跡」がある。
こうしたものはれっきとした文化遺産であるにも関わらず、そりゃあ容赦なく取り壊されていく。だからこそ、その前に記録に残しておいてくれる人がいるというのは、後進の者にはとてもありがたいことなのだ。
この本の「はじめに」には、こうある。
これは読者の皆様へのお願いですが、もし、街を訪ねたとしても、
◎無遠慮にカメラを向けたり、二、三人で出かけて写真のお宅で立ち話をしたり、指さしたりすることは絶対に避けて下さい。
◎どうか、一人でひっそりと出かけて、何かを感じて下さい。
◎さっと通り過ぎて、風のように立ち去って下さい。
そう、この本は、文章も写真も、礼儀がきちんとわきまえられている。対象への過不足のない敬意。この手のものでは意外と珍しい、と思う。また、たんなる郷愁に誘われた趣味人のものではなく、建築史として考察しているところもある、いたって真面目な本なのである。
今は民家になっている、かつては赤線で活躍していた建物には、ときには不釣り合いなほどの鮮やかな色のタイルが使われていたり、欄間に豪華な装飾が施されていたりする。こうした建造物の細部の一つひとつが、花街全体を構成していたのかと思うと、たとえガラス一枚にしても、何やらなまめかしい動きをする生き物みたいに見えてくるから不思議である。
私は昔からこうした町を歩くのが好きである。安心する。まったく、すがすがしいほど、目的が明確だからである。そして、花街は物語の宝庫でもある。永井荷風、樋口一葉、谷崎潤一郎、吉行淳之介、いったいどれだけの作家がこの場所に魅せられてきただろう。
今ではそのような町も減り、訪れる時間もほとんどなくなってしまったけど、ふとしたときにこの本を手に取る。しょっちゅうではないが、たまに。実生活上で新たに縁が出来た土地の名を見つけたりすると、俄然写真が違って見えてくる。
たとえば、仕事で通った横須賀。今でも軍都の匂いを残す。軍があれば、娼家はセットだ。また、川島雄三の映画を観て、芝木好子の原作を読んでからだと、「洲崎」のページはいっそう身近なものとなる。
ところで、かねてから思っていたのであるが、かつて玉の井に掲げられていた「抜けられます」なんてのは、言葉としても最高である。抜け道の案内という、きわめて実際的なものであるはずなのに、どこかしら淫靡な響きを持つような感じがするから。場所の持つ力には恐ろしいものがある。