旅が好きである。というより、旅をしないと気が狂いそうになる。というより、いい年をして、いつも、ここから逃げ出したいという願望が付き纏うて離れないのである。
昔、たしか味も素っ気もない相模原市に住んでいた頃のことだったと思うが、今よりも日常生活がうまく送れなくて大変苦しかった時、私は新宿に用事があって出かけた。帰るには、そこから小田急線に乗るのである。しかし、足が止まってしまった。どうしても乗りたくないのである。私は一人で、黙って中央線に乗った。東京で降りた。そのまま、東海道線のホームに向かった。そして、横浜まで行き、そこから京浜東北線で東神奈川まに向かい、最終的には横浜線に乗り換えて帰宅した。
東海道線に乗りたかったのである。なぜか?東海道線には、向かい合わせのボックス席があるからである。その席の窓ガラスに頭をもたせかけ、新橋、品川、川崎と、私は旅情にひたりながら、黙って夜の景色を眺めていた。金があったなら、駅弁でも食べていたところである。何とも滑稽なことではあるが、こういう時の衝動というのは、たとえ死刑を宣告されてもやり遂げるという狂的な強さがあって、これがために自分はずいぶん失敗もしてきた。
この晩、私は十分満足したのである。何も、遠くに行かなくたって良いのだ。
私がなぜ旅をするかと言ったら、そのほとんどが、すでに知っている風景を確認しに行くことが目的である。何かで読んだ、何かで見た、何かで聞いた。そのときの体験を、追体験しに行くのである。穿った見方をすれば、つくられたものと現実との落差を埋めに行く、ということになるかもしれない。
だから、一度も私が仮想で体験していない場所には、それがたとえどんなに珍奇な場所であっても、いっこうに興味が湧かない。仕事とか、やむを得ない事情で行った場所は、記憶に残ることもない。もっといえば、創造物や仮想の空間・時間の方が、ずっとリアリティがあるということになる。
かつて、保田與重郎に関する本を読み散らかしていたとき、彼が、婚約時代の妻に送った手紙のことが出ていて、それは、富士山は北斎の絵そのままです、といった内容のものだったという箇所を見つけて、我が意を得たりと思ったものだ。
だから、私は、人と旅に出ることがない。共有の仕様がないのである。坂口安吾の『日本文化私観』のために、わざわざ(これは結果的に、である。その時、そのタイミングでしかなかったのだから)正月の小菅刑務所に行き、その足で横須賀の軍艦巡りに行った。どうにも仕事がいやになって(こればっかり)、突然、『大菩薩峠』の舞台が見たくなり、わざわざ(こればっかり)ホテルに一泊して、御嶽山に登った。机龍之介が剣術の試合をした神社に行き、参道の茶店でそばを食べていたら、私の方をチラチラ見るおじさんがいる。
こういうとき、こんな人が何をしたいかは、私の長年の経験で知っている。
「どこから来たの」
「いや、近くなんですけどね。ここ、中里介山の『大菩薩峠』の舞台になっていますよね」
「そうなんだよ!神社は見た?」
「ええ、さっき」
ここからおじさん、滔々と地元の話を始める。ふんふんと聞く。じゃあ、案内してやろう、ということになり、私は急いでそばを食べ終え、方々を連れまわされ、あげく、また来たらいつでも案内する、と、何やら立派な肩書のついた名刺を貰うことになる。
自分ではよくわからないのだが、私はこういう人によくつかまる。駅前の食堂でそば(またか)やカレーを食べていたりすると、まず十中八九話しかけられる。話しかけやすい面構えなのだろうか。
ちょっと違うけれど、一度、スーツケースを持って、わりと混んだ山手線に乗っていたら、初老の婦人がすっとそばに寄ってきて、「あなた、羽田に行くんですよね?一緒に行っていただけませんか」と言われた時はさすがに驚いた。残念ながらそのときの私は羽田には用事がなかった。
旅と文学というものの極意としては、次の芭蕉の言葉に勝るものはあるまい。
むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、山崩川落て、跡あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也。
この先人の言葉のために生きている、と思う瞬間が、旅にはある。