高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

スティーヴン・スピルバーグ『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』

1989年公開で、私は珍しくこれを公開時に観ている。中学2年生だった。あまり良いスピルバーグ映画の観客ではないが、これは好きな作品である。ビデオでも、DVDでも、あるいはテレビ放映されていても、ついつい観てしまうのだから、よほど好きなのに違いない。

シリーズ3作目のこの映画、インディ役のハリソン・フォードはもちろんカッコいいが、何と言っても、父親役のショーン・コネリーが最高によい。なぜ、外国の俳優はとても良い年の取り方をするのだろうか。禿げていようが、何だろうが、かつてのアクションスターが、こんな味のある俳優になっている。それは女優も同じで、『シェルブールの雨傘』ではまだ可憐な〈少女〉だったカトリーヌ・ドヌーヴが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも、『8人の女たち』でも、現在まで生き生きと健在ぶりを見せているのだから、本当に羨ましい。成熟した大人の文化がきちんと根を張っている。

日本では、文学にも典型的に表れているように、晩年にいくほど成熟した島崎藤村谷崎潤一郎より、永遠に少年である太宰治などの方がもてはやされる。ま、基本的にはロリコン文化だしね。

さてこの映画。キリストの最後の晩餐に使われたという聖杯をめぐる冒険活劇(これ、死語かなあ)。この聖杯を手に入れた者は、永遠の生命を授かることができるのだ。インディは最初は渋っていたが、父親がこれを探しに行って行方不明になったことを知り、父を探すために旅に出る。

まったく、何が面白かったからといって、欧米おけるキリスト教文化とはどんなものか、というのを知るのが楽しかったのである。それはまったく異質な世界だった。私は、仏教徒でありながらキリスト教系の幼稚園に通っていて、賛美歌などを歌わされたり、イエスの生涯を幼稚園児レベルで学ばされたわけであるが、それがかえって良かったのだと思う。インディのロマンスや、親子のドラマより何より、キリスト文化にわくわくしたのだから。

まず、聖杯伝説からしてそうである。でもさ、クライマックスで、数ある杯のなかから聖杯を選ぶ場面ね。あれ、間違えると、あっという間に年を取って骨だけになっちゃうんだけどさ、その選ぶべき聖杯が、いかにも素朴で、土でできていますっていうの、ベタすぎると思うの。

他は、金でできていて、宝石が散りばめられていたりするわけ。インディと敵対する考古学者(美人)はそれ選んじゃうんだけど、あんた、フツーに考えて、聖杯がそんな豪華なわけねーだろと私は突っ込みましたよ。時代とかさ、キリストの生涯とか考えたら、ねえ。アメリカらしい底の浅さ。正直者の頭には神が宿る?みたいな。金の斧銀の斧鉄の斧。

まあそれはそれとして、私が一番うわー!!面白いって思ったのが、聖杯を手に入れるために、インディが、アルファベットの文字が刻まれた石畳を渡る場面。これ、間違えると崩れちゃうんです。で、お定まりの奈落。神の言葉の通りに進むという暗号。インディは神の名前を辿ることにする。エホバ(jehovah)。ところが「j」を踏んだ途端に石は崩れる。そう、これは英語。ラテン語では「i」から始まるってことを思い出し、インディはこの難所を切り抜ける。

いやー、ぞくぞくしました。今これを書いていて、やっぱり私は言葉に反応する人間だったんだなあと思う。この神の名がどうだとか、エホバがどうだとか、教義的にどうだとかいうことは、いろいろ問題があるようですが、ここではパスします。ただ、たかだか中学2年生に、ここまで記憶として刻まれたキリスト教文化、言語の問題ってのが、私にとっては何より大事なわけ。

この映画を観たのは、宮城県石巻市の映画館だった。夏休みだった。ちょうど、同級生のおばあちゃんが石巻に住んでいて、家が広いからということで、同級生の何人かと泊まりに行ったのである。映画に連れて行ってくれたのは、友達の叔母さんという人だった。今思えば、中学生6,7人に映画を観せてくれて、お昼ごはんまでごちそうしてくれた(古めかしい、いい感じの喫茶店だった。私は海老ピラフを食べた)のだから、かなりの散財をさせてしまったと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

東日本大震災で、石巻は壊滅的な打撃を受けた。その時、真っ先に思ったのは、もうこの映画館も喫茶店もなくなってしまったのだ、ということだった。